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それはきっと、貴女に大切なものだったのでしょう。
大切でないものは、
なくなっても怖くなどないですから。
手放すのは自分の意思で、行動で。
なくなるのは自分以外によって決まってしまうもので。
自分にはどうしようもないことは…
避けられないかもしれないことは。
不意に訪れる事は、怖い。
それを振り払って、大地に足を踏みしめて。
新しいものに手をのばす貴女を、
自ら動こうとすることを。
私は素敵だと…思いますよ。
……。
[今度は私が黙る番であった。彼女の感想は至極正しい。私の記憶が消去されれば、ドロシーの思い出は消える。
私はドロシーと過ごした十年を、俯瞰では仕事として捉えている。しかし勿論、ドロシーの夫として過ごした日々に何も感じなかった訳ではない。
沢山の幸せが、思い出があった。
ドロシーが亡くなる時に、それはいずれ来るとわかっていても胸が張り裂けんばかりの悲しみを覚えた。
そして今、ドロシーとの思い出を噛み締める時間が残り少ない事にも…。
何も思わないわけではない。]
…でも。
グリーディアさん、貴女には
未来がありますからね。
自ら道を選んだ貴女には、きっと…
どうか手を延ばして、掴んで下さい。
貴女に必要なものを。
[カウンターに両手をついて天井を見上げる。それから、視線を戻して。
私の淹れた珈琲を味わってくれている彼女を見つめてからふと。]
珈琲、飲んで下さり有難うございます。
今の私はそれで満たされますから。
…本当にありがとう。
そうだ、貴女に渡したいものがあります。
この後少しだけお付き合い頂いても?
私の部屋の前まで来て頂くことになるのですが。
[ふと思いつき、私はそう口にした。もう随分長く彼女を拘束しているので申し訳ないと考えつつも、彼女にもう一つ私からあげられるものがあると思ったので。
彼女が辞退するのなら、ここで別れる事になるだろう。]*
[カップとソーサーを手早く洗い片付ける。私が彼女を誘ったのはそのあとであった。女性を男性が誘う場合色々と警戒されることもあるが、幸い私はアンドロイドである。にこやかな笑みのまま、彼女を伴い食堂を後にしよう。
エスコートは任せてほしい。]
グリーディアさん、ご存じですか。
ほらここの廊下の壁、下の方に
小さな落書きがあるんですよ。
こんな低い位置にありますし、
子供の乗客が描いたのでしょうね。
…可愛らしい。
[通りがかった廊下の壁を指し示す。それはまるっこいペンギン型のアンドロイドを描いたものであった。
落書きは建造物損壊罪に問われる可能性があるが、一か月近くも乗船していれば、大人も子供もこの船を自宅のように思ってしまう、という事なのかもしれない。]
[船内の廊下とエレベーターをいくつか経由し、自室前へ。そこで少しお待ちくださいと告げ、一人室内へと入る。
私は探し物に時間を取らない。何故なら、持ち物の位置は全て脳内に記憶されているから。ほどなくし、私は小さな箱を手にして彼女の元へと戻る。]
お待たせしました。
わざわざ一緒に来て頂いてすみませんでした。
…先程、貴女がオレンジを手にしていたのを見て、
ふとこれを思い出しまして。
[箱の蓋を開くと、そこにはマンダリンオレンジ色のシトリンという宝石がついたブローチが入っていた。]
ドロシーの遺品のうちの一つで、私が贈ったものです。
どうか、貰って頂けませんか。
本当はマイケルに届ける予定のものではあります。
しかし、彼はきっとこれを…
処分してしまうと思うのです。
…私の記憶と同じように。
それに。
[消えてしまう思い出を悲しんでくれた人に、形ある何かを残したい。
一番の想いはこうだが…彼女にこのブローチを贈りたいと考えたのには、
理由がある。
それを口にするのが恥ずかしいと感じる私は、よく出来たアンドロイドなのだろうか。それとも。
少しだけ。そう、ほんの少しだけ私は頬を染め、こう言い添えた。]
美しい貴女には。
…きっとこれが似合うと思って。
──妻、ドロシーと同じように。
[ドロシーにこのブローチをプレゼントした際も、私は気の利いた言葉が言えなかった。気障な台詞は沢山プログラミングされていたけれど、どれも適切ではなくて。
今もまた、私は不器用にただ言葉を並べているだけだ。
祈るような気持ちで私は彼女の答えを待った。]*
[宝石よりも深い輝きを称えた彼女の瞳に去来した想いはなんだったのだろう。
どんなに優れたAIも、人の複雑な心を正確に推し量る事は出来ない。
でも。
その橙が瑞々しく彼女の胸に咲いた瞬間──私はそこに亡き妻の面影を確かに見た。
小さく息を吐いて、自身の胸を抑える。
何かがそこに溢れていた。見えない何かが。
それは彼女が私の贈り物を受け取ってくれたために溢れたのだと思う。そう、きっと。]
――スイッセスの手記1――
[目を開いた瞬間、私はまず年老いた女性の顔を見た。
彼女は「まあ、起きたわ…」と驚いたように言って。
それから私の頬を撫でた。皺だらけの指で。
そして私の事をこう呼んだ。
「あなた」と。
十一年前、ドロシー・サイフォンは長年連れ添った夫に先立たれた。
夫のスイッセス・サイフォンは多額の遺産を遺してくれたが、その使い道として選んだのが…アンドロイドをフルオーダーで造る、という道で。
既存のアンドロイドを買うのと違い、それは破格の値段を要求された。
息子のマイケルは母親の決断に激しく反対を示す。
しかしそれでもドロシーは、アンドロイドを造る事を諦めなかった。
夫を模したアンドロイドを。]
[そして一年後。
産まれたのが私である。
亡き夫と同じ顔、同じ声、性格パターンや記録をコピーし製造された、RS‐63857。
当時の最新級技術を詰め込んだリッツ‐ルッカ社製のアンドロイドである。
「スイッセス、今日からまた逢えて嬉しいわ。これからどうかずっと、私の傍にいて頂戴ね。」
涙を零すドロシーを私は抱き締め、背中をすった。生前の夫がそうしていたのがデータにあったからだ。
この時の私はまだ「ドロシーの夫として振舞う、それが自分の仕事である」という認識しか持ち合わせていなかった――。]
――カラントとの出逢い(回想)――
[この船に乗り込んでから、私は日課として食堂に足を運んでいた。
食事を取る為ではない。アンドロイドである私は、人間と同じ食事を口にする事は可能であるが、それが動力源として必須かと言われたらノーだ。
私の目的は珈琲を淹れる事。
本来は従業員型ロボットたちや、珈琲サーバーの仕事であるが、私は勝手に器具を持ち込んで珈琲を点てていた。
それを喜んで飲んでくれる方がいるのは大変有難い事である。
その日も私は黙々と珈琲の準備をしていたと思う。
私のそんな所作が目に止まったのであろうか、彼の人が声を掛けてきた。
眼鏡型の電子機器を装着した大柄な男性。薄オレンジ色のフィルター越し、此方に注がれる眼光は鋭い。眠気を伴っている状態そうなっていたのかもしれないが、少なくとも私にはそう見えた。]
[彼の声と容姿はどこか人を惹きつけるものがあり、私の興味を刺激した。
一体何をしている人なのだろう。体格から、スポーツマンか何か?
顔立ちは随分と男前だ。
考えながら私はデミタスカップに注いだエスプレッソ珈琲と、大盛りのトルコライスを用意した。
トルコライスとはひとつのお皿にトンカツ・ナポリタン・ピラフを盛り合わせた料理である。おまけとしてエビフライも乗せておいた。
さて、彼はこのサービスに満足してくれただろうか?
私が彼に正体を明かすのはもう少し後だろう。
勿論、私は怒りなどしない。むしろ従業員のふりをして彼を騙した事を詫びたと思う。]*
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