庭園の主 プラルトリラ

[この夜も、昏き空に星は数多輝く。
　それらは遠く、遠く、永遠を約束されているようでいて、
　けれどもいつかは寿命を迎えるのだと、人間の科学は言う。]

　

庭園の主 プラルトリラ

数多の星座は庭園を照らす

[庭園の敷地内、コテージの外にそのガゼポはある。
　夜風の吹き抜ける細い柱の内側に、ティーセットを広げた丸テーブルがひとつ。卓を囲む形で幾つかの椅子が並んでいる。
　今夜その席に着いているのは、庭園の主たるプラルトリラと、数日前にもこの園を訪ねにきた「お嬢さん」だ。]


　「懐かしい記憶」――そうね。
　今夜は少しだけ、そのお話をいたしましょう。


[「お嬢さん」の真向いの席で、プラルトリラはティーカップをソーサーに置く。松の葉を写実的に描いた白磁の中に満ちる昏い紅色が、その水面を微かに揺らす。]

庭園の主 プラルトリラ

　例えば、雪深い森を駆けていたあの子。
　小さな狼の使い魔がよく手紙を届けてくれたの。
　――その子は結局、目立つ襲撃（やんちゃ）をし過ぎたせいで
　　　里の村人たちから白木の杭を打たれたと聞いたわ。

　例えば、水の都の孤城に籠っていたあの子。
　様々な記念切手を封筒に貼ってくれたものだった。
　――その子の居た都は空襲で跡形も無くなって、
　　　その子自身も、お城の瓦礫ごと炎に呑まれたのだそう。
　

庭園の主 プラルトリラ

　例えば、東の方の都を巡り歩いていたあの子。
　今時の人間の文字遣いを楽しそうに真似ていたものね。
　――その子は、吸血鬼（わたくしたち）を狩る者に目を付けられたみたい。
　　　今はもう誰の口からも、その子の行方を聞けていない。

　例えば、砂漠に咲く薔薇のようだったあの子。
　手紙にも甘い薔薇と潮風の香りを漂わせていたわ。
　――その子は、途方もない長い生の果てに
　　　地平線上の夜明けの光を受けて砂に還っていった。
　

庭園の主 プラルトリラ

[「お嬢さん」は黒菫を描いた白磁のカップに口を付けたまま、紅衣の語り手を見つめていた。
　老婦人の顔をした語り手は、穏やかな面持ちのまま、話を続ける。]


　ええ。わたくしたちは永遠の存在のようでいて、
　ふとした瞬間に終焉を迎えてしまうこともある。
　……たまに真の不死者がいるとかいないとか、
　　　そんな噂が囁かれることもあるけれども。


[「いるの！？」と咄嗟に口にした「お嬢さん」の手からカップが滑り落ちかけた。
　辛うじて一滴の茶も零さずに済んだ若き吸血鬼の焦りぶりに、老生の吸血鬼は微笑ましげに声を上げてみせる。
　さて、そんな「噂」として語られるのは一体誰のことか――そんな含みでも持たせたかのようなくすくす笑いを零した後、プラルトリラはさらに話を続けていく。]

庭園の主 プラルトリラ

　それでも、あの子たちが遺した手紙の灰色は、
　過ぎ去った日々をわたくしに再び教えてくれるの。
　まるであたかも、今もあの子たちがわたくしの
　目の前で語りかけてくれているかのようにね。

　

庭園の主 プラルトリラ

[うら若き（なりたての）吸血鬼は「なんだか深いような重いような」と零しながら、ガゼポの柱の合間から覗く星座に視線を泳がせる。
　そのうら若き（真に若年の）横顔を見遣るプラルトリラは、「お嬢さん」の耳に何も嵌まっていないのを確かめてから、ふと思い出したかのように問いをひとつ。]


　ところで貴女、最近、
　アイドルのお仕事の方はどうなの？
　その出で立ちだと、コンサートを抜け出して
　ここまで翔んできた訳ではないのでしょうけれど。


[「お嬢さん」にしてみれば、ここ（オフ）で突然、人間社会での仕事（オン）の話題を持ち出された訳で……。
　「何ですかいきなり！？」と慌てて向き直った若き吸血鬼に対し、プラルトリラは悪戯好きな妖精のように、再びくすくすと笑い出していた。]

庭園の主 プラルトリラ

[その「お嬢さん」のジーンズの膝に載せられたコウモリ型のポシェットには、灰色の薔薇の花弁で染められた薄手の紙が、帯封で束ねられた状態で詰め込まれている。]

　

C＃m：宵月 ヴィブラト

― 早い朝 ―

[宵月小堂の正面扉に提げられた「Closed」の札は、
　この日のあいだ、裏返ることはない。
　扉の小窓のステンドグラスの張り紙には
　「店主都合により臨時休業」の旨が、
　ヴィブラトの筆跡で記されている。

　そのヴィブラトは、リビングの隅に置かれた
　旧型のテレビに映し出される朝のニュースに、
　昨夜から何度目になるか分からない溜息を零す。]

（迎えに行けるものなら
　行ってやりたいが……）

[ベネディクトが向かっていた都市における
　豪雨と落雷による空港機能の停止に、
　未だ復旧途上の高速鉄道の運休の報。
　線路上への土砂流入に起因する脱線事故では、
　死者は幸い出なかったとのことだったが……。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[昨夜以降、帰還困難状態のベネディクトとは
　ショートメッセージも交えながら
　幾つかの遣り取りを交わした。

　ベネディクト自身はなんとか、この豪雨の中
　安全を確保できるホテルに身を寄せていること。
　市場で仕入れた商品の配送日程について。
　（それこそこの雨の影響で、予定より
　　大幅に到着が遅れる見込みでもあったが）
　そして店主不在時の休業対応や、
　それに伴う顧客へのメール対応についても。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[天候が落ち着き次第、バスだろうがタクシーだろうが
　ヒッチハイクだろうがなんとかして帰りの足を確保して
「なる早でヴィブラトさんの元に帰るッ！！」という
　“信奉者”　の決死の覚悟については、
　この吸血鬼は謹んでNoを申し出た。]

　別に俺は、血が吸えなくたって死ぬわけじゃない。
　ただ少し動けなくなるだけだ。
　だからあんたはまず、自分の身の安全を一番に考えろ。
　あとそこからタクシーに乗るのはやめておけ。経済的に。

[既に幾らかの眩暈と渇きを覚えているのは隠したまま、
　若人を宥め諭すように、スピーカー越しに告げる。
　この時……いや、普段から、カメラ映りの悪さを理由に
　　（この吸血鬼は、鏡映りもあまりよくなかった）
　ビデオ通話を堂々と固辞できたのは幸いだった。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[……ともあれこうして、今日の朝を迎えた訳だ。
　同居人のために昨夜作っていた、鶏ムネと
　青野菜のハニーマスタードソース和えは、
　一箸も付けられぬまま冷蔵庫内に眠っている。

　昨夜から、人間の貧血対策の手料理は勿論のこと、
　人の生き血もヴィブラトは口にしていない。
　吸血鬼に対しての血液提供のビジネスも
　比較的最近に　“同胞”　から聞いてはいたが、
　「もうパートナーがいる」の一言で断っていた。
　　　ここでの「パートナー」とは当然、
　　　血液の確保元という意味でしかないが、
　　　それ以外の意味もあるように相手に取られたかは、さて。

　そして無論、件のレビューサイトも見ていない。
　「食べ歩き」を好まない……以前の話として、
　三十年以上前に一度死んだこの男の携帯端末は、
　ほぼ通話とメッセージ専用機と化していたのだ。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

（動けるうちに、できることは
　やっておかないと、な　……）

[メール確認自体は既に済ませていたが、
　現在の時間帯を鑑みて
　（本来の営業時間よりもまだずっと早い朝だった）
　顧客からの鑑定依頼や在庫確認についての
　連絡は少しだけ後になる。
　先に行うのは、郵便受けの中身の確認だ。

　この日の手紙も一通のみ。
　　この後また別口でもう一通、
　　文字通りに「飛んで」くる手紙があるのだが……。
　封筒のデザインには見覚えがあったが、
　宛名の筆跡は、その時の記憶とは異なる印象のもの。
　この街の土地柄に合わせたと思しき意匠の切手に、
　（ヴィブラト自身はこの地の出身でないながら）
　仄かな親近感をおぼえたのは、ここだけの話だ。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[珍しく、携帯端末を書斎に持ち込みながら、
　今朝届いた封筒の宛名を確認した上で
　ヴィブラトはその封を切る。
　　結果から言えば、確かにこの手紙は
　　間違いなくヴィブラト宛に書かれたものだったが、
　　宛名書きの確認がやや甘くなったのは、
　　それこそ間違いなく、この時の渇きの所為。]

　…………良かった。

[声の形で零れたこの安堵は、
　ひとまず相手を怒らせてはいないらしいことを
　冒頭の謝罪と感謝の言葉で察したから。]

（謝ることなんてないんだが、な）

[つい先日自分も　“お仲間”　の何方かに対して
　似たような誤配の詫びを書いたものだったが、
　それでもこう思ってしまったこの男である。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[こうして、記憶の中の「殿下の従者」の印象に違わない、
　それでいて書き癖も垣間見える濡羽色を
　右眼で追い、読み進めていく。]

（……そんな大したことない手紙だったか？）

[その手紙はもう手元になかったから
　記憶の裏付けはできなかったが、
　それなりに「大した事」が綴られていた印象が
　この男の記憶には残っていた。
　　何せその心当たりの語（「パートナー」）を目にしたことで
　　誤配に漸く気づいたのだから、
　　個人的な経験とも結びついて、印象は残り続けていた。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[それはさておき、その手紙には謝罪の文に続けて
　あの折の来訪時の思い出も綴られていた。
　こうした話を自分からは添えられなかった辺りに、
　ヴィブラトの、序に言えばブレンダンの、
　ギャルマインド不足のビジネスパーソンぶりが
　あったのかもしれない。いや、あったのだろう。]

（ベネディクトのやつにも、
　聞かせてやりたいものだな）

[あの当時とは全く別の事情で
　今この場にはいない古美術商を思いながらも、
　その　“お手伝い”　は、ふっと口元を緩めていた。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

（この感じだと、グリッサ様は、
　あの手紙は読んでいない、か）

[おそらくは郵送経路のどこかで
　手紙が留まっているだけだろうと考えながら。
　　繰り返される誤配の可能性については
　　考えても胃を痛めるだけだと、
　　軽い眩暈の中、頭の中の冷静な部分が告げていた。]

（向こうがまた店（ウチ）に来る心算なら、
　改めてアレについて書くこともないな）

[バックヤードの倉庫の棚にひっそりと仕舞われている、
　さる戦火から生き延びたティーカップとソーサー。
　それらについてはここでは置く形で、
　ヴィブラトはペンを執ろうとして――]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[そんな時にふわりと眼前に現れたのは、
　見覚えのある瞳の色の　“伝書鴉”だった。
　届けられた手紙の和紙の色もかの灰色で、
　すぐにかの恩人（吸血鬼だが）からの便りだと知れたが……。]

　そうだよなあ、…………。

[書き出しは　“気風の良い先達”　らしい、
　アドバイスも添えながらの返信だったのだが。
　　書き物机の引き出しに仕舞い込んだ
　　カペーシアからの手紙のことも思い出されながら。
　これまでの印象に違わない言葉を記す文字に、
　先日の手紙とはどこか異なる筆遣いがみえた気がした。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[手紙を読み進めるうち、より意識に入ってくるのは、
　文字の中に所々みられる墨の滲み痕、
　その墨の黒が薄れすらしている箇所に
　右の瞳は暫く留まっていた。]

　………………、
　あの方でも、涙することがあるのか。

[本人（？）の前ではとても零せないような
　聊か失礼な感想が口から零れていた。
　ヴィブラトがこんな一言を零したのには、
　かの東国の、実在性を疑われる程の「歌舞伎男」の伝説性を
　“若輩者”　なりに意識していたことも背景にある。

　ともあれ、「家族」との別離を経た男の物語への、
　「家族」がいなかったという歌舞伎者からの
　幸せに、そして悲しみに添うような答えに触れていく。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[その中に記されていたひとつの「憶測」が、
　天涯孤独にして自由な生に縋ったという者なりに
　長い時を経て考え抜いた答えだろうということは、
　ここに至るまでの筆捌きが物語るよう。]

（そうだったんだろうか、俺は）

[あの事故以来、“血の定めの者”　として蘇り
　再び人の形を為しても、なくなったままの左眼。
　その傷跡は、ブレンダンという人間の
　今際の記憶を何も物語らない、が……。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[その筆遣いは再び、「歌舞伎男」の印象に違わない
　自由闊達、奔放なる月夜の鴉めいたそれに戻る。
　「馬鹿だから」と前置きながら
　その思いと提案は綴られていたのだが……。]

（もう、あの子は、
　そういう歳ではないんだがなあ……）

[昨日までのこの父親、この夫であれば、
　ここで先に過っていたのは躊躇のほうだっただろう。
　けれどこの日の、かつてのブレンダンは、
　己の背中を押す手をもう一人分得た心地で、
　例の祭日と聖人の名に、苦笑をひとつ零していた。

　ところでこの時、ブレンダンだったこの男の脳裏には
　もうひとつの祭日のことも過っていたのだが……。
　果たして　“その夜”　が何時になるかは、
　この時はまだ、きっと神様しか知らないこと！]

C＃m：宵月 ヴィブラト

（……そういえば、あの方にも、）

[ここでふと、机に置いたままだった
　グリッサからの手紙に視線は一度赴くも、
　はっと気づいたようにモーラからの文に向き直る。

　　集中力の微かな減衰を自覚した吸血鬼は、
　　その理由についても、すぐに思い当っていた。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

　「愛は世界を救う」、か。

[ロックミュージシャンが語る「愛と自由」に、
　幾らか前の段に記されていた言葉を口ずさみ……。
　そのロック奏者からの追伸に、はたと瞬く。
（あくまで「かも」という話ではあったが）

　その中にあった古美術に関わる話……のみならず、
　古美術商本人に対しての評も目にすれば、
　持ち込んでいた携帯端末のほうにも
　ちらと視線をまた泳がせて……]

C＃m：宵月 ヴィブラト

　……………、まずい、な。

[数枚にわたる灰色の和紙をまとめて整えてから、
　この手紙を届けに来た使い魔の鴉に向けて、
　一度主のもとに戻るように促した。
　　最悪、ヴィブラトのほうから自力で
　“同胞”　のネットワークに返信を託すという手もある。
　　それが歌舞伎者の流儀に照らし合わせて「いき」でなかったなら、
　　「どげざ」くらいはする気でいる、この男だった。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[口の中に覚える渇き。
　ひとつだけの瞳に生じる揺らぎ。
　この吸血鬼は、眩みと焦り、衝動の中で、
　今すべきことの優先順位を定めていく。]

　まずは、顧客対応の、ほう、を……

[相手に顔も声も伝わらないメールでの遣り取り。
　　これがウェブミーティングであれば最悪の最悪だったが
　　そもそもこの吸血鬼はその担当にはならないという最幸。
　幸い、返すべきはほぼ事務的な内容だけで済む。

　紙の手紙の返信に取り掛かるのは、この後だ。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[さて、再び書斎に戻ってから、
　手紙の返信を綴るにあたり――ヴィブラトは考えを変える。
　まだその場に残っていた使い魔の鴉を引き留め、
　己の霞む右眼を軽く擦ってから、ペンを手に取った。]

　

Am：朋義 グリッサ

[今日は特別に依頼がないので、同胞のバーで給仕係として働く予定だ。
男は太陽が中天に昇った頃に起きだすと、広がりやすい髪を抑える為に三つ編みに纏めていた。
主が起きるまでにはまだ十分に時間がある。

今日は二通の手紙が届いているようだ。
謝罪の手紙を送ったばかりの相手と、手紙を交わし始めたばかりの相手からが一通ずつ。
前者は返事が戻ってくるには早すぎる為、別件で送られた手紙が遅れて届いたのだろう。
後者は男のアイデアは役に立ったのかどうか。

封筒のサイズが普通である事に安堵しながら、鋏で開封する。]

Am：朋義 グリッサ

[前者は、ティーカップとソーサーの入荷を知らせる報せ。
来店の際に話題に上り、もし見つかればという気持ちで主が頼んでいたものだ。

かつて、男達の母国で同じ工房で作成されたティーセットを王子が気に入ってよく使っていた。
旅に出る際に持っていく事は出来ず、保管して貰っていたのだが、戦禍で失われてしまったのだが、どうやら被害を逃れた物を入手できたらしい。
──きっと、主も喜んでくれる事だろう。
男の顔は綻ぶ。

そうして、男達の旅路について思いを馳せた言葉が続く。
愛する者と離れながらもその人を諦められない苦しさとは、彼の実体験だろうか。
従者である男への労わりの言葉もついている如才のなさ。
男が手紙を誤送しなければ、きっとそれが彼との久しぶりのやり取りとなったのだろうに。]

Am：朋義 グリッサ

[誤送した手紙の中で零してしまった言葉が、彼の中に疑問を落としている事は知らず。
冗談で書いた心算はないが、大した事であってはならない。
男は王子の従者なのだから。

追伸として綴られた、彼の同居人である店主の話。
是非、顔を合わせて挨拶をしたいと思ったのだが、顔を合わせる事が出来なかった理由に、吹き出してしまった。
整った顔の王子やヴィブラトはともかく、男も混ざって良いものか。]

Am：朋義 グリッサ

[後者の手紙は、まずは返信への感謝の言葉が綴られていた。
まだ若いのか、それともコミュニティの活発でない土地なのか、存在も知らなかったらしい。
何でも携帯端末で出来てしまう世の中で、コミュニティへの関わりは二極化していると聞く。
男も王子の旅暮らしをより快適に過ごす為に模索した結果なので、必要がなければ存在に気付く事もないのだろう。

彼女の住んでいる住所を見れば、現代的な街で“地下”の格差も広い街のようだった。
近辺にあるコミュニティはと記憶を手繰ってみれば、治安の悪い地域であった。
人間の目の届かない場所という意味では適した場所ではあるのだが。
少しばかり渋い顔になる。]

Am：朋義 グリッサ

[コミュニティに入った場合の事についても触れられた。
人間と接する事で彼女の心の中に生まれる葛藤にうまく名前を付けられていないようだ。

男の場合は、主の存在が前提にあった。
男の目的は主の旅路に付き従う事で、ひとところに長く住み続ける事はない。
数十年もすれば母国の知り合いもいなくなり、人間との関わりは減っていくばかりだった。
使命が何よりも優先するべき事なのだから、それに対して後悔はない。
けれど彼女はどうだろうか。

返事はいつでもいいと書かれていたが、早く返事を書きたいと思った。
男の経験を伝える事で、彼女がよりよい選択を出来るといいのだが。
その気持ちに動かされて、二通の手紙の返事を読んだ順にしたため始める。]

Am：朋義 グリッサ

[カペーシア宛の手紙には前回と同じように術をかけ、
ヴィブラト宛の手紙は宛名などを何度か確認してから封をする。

そうしてフォルクハルト宛の手紙と一緒に三通ともを管理人に預けた。
主の起きる時間が近づいている事に気付き、主の部屋の扉をノックする。
応答はなかったが、それはそれなりにある事なので、苦笑しつつ、断りを入れてから入室した。]

失礼しますよ。

[普段は主がベッドに寝そべっていて、男が肩を揺すってようやく目を開くのだが。
主は其処にいなかった。]

Am：朋義 グリッサ

……え？

[男は慌てて部屋の中を見回す。

稀に、目を覚ました彼が散歩と称して出かけている事はある。
そうした時には携帯端末を持っていくのが常であった。

携帯端末は、ちゃんと持っていったようだ。
それに安堵しつつ、男はアプリを起動してGPSで居場所を探そうとした。
──反応なし。
電源が入っていないか、電源が切れてしまったか。
昨日は充電をした筈だった。
という事は電源を入れていないというのが妥当か。]

Am：朋義 グリッサ

[男は主の部屋を出て、管理人に声を掛けた。
大抵は管理人室にいるのだが、主が出かけるところは見ていないらしい。

これが初めてなわけではない。
携帯端末を持って出ているだけ状況はマシだ。
念の為、主に電話をかけ、留守番電話にメッセージを残しておく事にする。
それが終わると、別の連絡先にコールをした。]

グリッサだ。
悪い、今晩はバーに出られないかもしれない。
王子が行方不明だ。
これから探す。

[男は今晩の勤め先に一報入れると、セーフハウスを走って出て行った。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[先に書き終えたのは、この日初めに読んだ手紙への返信。
　ヴィブラトは、これまでも幾つかの手紙において
　校正の甘さを呈することがあったのだが……。
　渇血の不調さえなければここではまず書かないような
　ひどく個人的な事柄をそのまま載せてしまっていた。

　これは紛れもなく、ヴィブラトが覗き見てしまった
　フォルクハルト宛の手紙の文面の記憶が
　頭の中で混ざってしまったためだったが……。
　グリッサたちにもあの折にどこかで、ふと、
　家族との離別を零したような気もしていたのだ。

　……そしてこの男、そんな個人的な一言を
　ここで添えるべきか否かを再考しないまま、
　この封筒に封をしてしまっていた。
　そのくらいの思考力の低下が、この時、起きていた。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[ここでまたふと、書き物机の引き出しの中の
　カペーシアからの手紙に意識が向く。
　　ああ、また注意散漫になっている！]

（独りで気張らず、……）

[こちらからグリッサの力になろうとした、
　そんな文面を過去に書き記した記憶はあった。
　　序に言えばこの吸血鬼は、店のバックヤードに
　　人でも誰でも吸血鬼でも身を寄せられるように
　　動いていた、という事実もある。
　　それこそ同居人にどれだけ嫌な顔を
　　（或いは「しにそうな（尊さに呼吸ができない）」顔を）されようとも。
　過去にセーフハウスで助けられたことに対しての
　恩返しめいた、こうした一連の行動だったが……。

　ともあれ、その「恩」を貰った相手のひとりへの文を
　“時間切れ”　を意識しながら、書き綴っていく。
　　　　ただの　“時間切れ”　で済むなら寧ろ幸いだ。
　　　　　　　　この吸血鬼が、真に怖れていたのは……。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

　……………ッ、は　あ……



[手が震える。ペンが転がる。
　ここで描き上げた便箋を、覚束ない指先で
　なんとか封筒に収めていく。
　その封筒を使い魔の鴉に託してから、
　机上に未だ残っている未投函の封筒を改めて見遣り……。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

　出ざる、を、得ない、か。

[グリッサ宛の手紙までこの　“伝書鴉”　に託すのは、
　譬え労働に関する法律が適用されずとも
　吸血鬼（ひと）としてどうかと思われた……
　という思考に限って、ひどく冷静に過ってしまうものだった。

　それ故に、ヴィブラトは不調と懸念を圧して、
　一度、手紙の投函のために外出することを選ぶ。
　たとえ己の使い魔を使役する術がなくとも、
　ここで投函を任せられる　“お仲間”　でも身近にいれば
　このような事態にはならなかったのだが……。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

　……、そう、だ、まず、

[外出前に、書斎に持ち込んでいた携帯端末から
　未だ出先で足止めを喰らっている筈の同居人に宛てて
　ショートメッセージを打ち込んでいく。
　予測変換のお陰で、ペンで文字を綴っていくよりは
　まだマシな文章を打ち込むことが叶っていた。]


“あんたが帰ってこられる頃には
　俺は眠りに就いている筈だ。
　起こす際には、必ず俺の手足を完全に拘束しろ。
　この作業は極力二人以上でやれ。”
　

C＃m：宵月 ヴィブラト

　……………、


“あんたの審美眼を
　グリッサ様が褒めてくださっていたぞ。
　あとあんたのこと、名前は伏せるが、さる筋から
　「おもしれー」という評価もいただいている。”


　　　……………………、


“できれば、ハロウィーンの前までには起こしてくれ。”


　　　　　………………………………、

　

C＃m：宵月 ヴィブラト

“万が一、俺が死んでいたら、
　俺のことは忘れろ。いいな。”


　　　　　　　　　　　　　　　…………。


“カレンからの手紙が来たら、
　それにだけは、返事してやってくれ。”

　

C＃m：宵月 ヴィブラト

“おやすみ、ベネディクト。”


[この間の既読通知も、
　通話の着信を告げるサインも全て無視して、
　ヴィブラトは今度こそ、裏口から通りに出て行った。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[裏通りから垣間見えた人影が、
　誰もかも「食らうべきもの」にみえてくる。
　少しでも理性の糸が切れてしまえば、
　その生き血を求めて飛び掛かってしまいそう。
　獲物が死なない程度に血を吸う、なんて
　そんな常通りの器用な抑制も、
　この渇きの中では、望めそうにない。

　たとえ他の　“同胞（なかま）”　たちがどう在ろうと、
　己の内の　“血の定め”　がまさしく
　“人でなし”　の怪物のそれであることを、
　ヴィブラトという吸血鬼は、自覚している。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[ジェニーからの拒絶によって抱えた絶望に
　付け込まれる形で誘われた場所――
　「非科学」を捕獲する研究所から逃れた時に、
　既に生前に近い人型を取り戻していたこの吸血鬼は
　嫌という程に、その　“怪物性”　を自覚させられていた。
　　　虚ろな影。「ぶよぶよした」何か。
　　　未だ理性まで蘇っていなかったその頃には
　　　全くもって意識の内になかったことだ。

　人としての尊厳など求めようも無かった
　その収容室から脱出するために、
　監視と観察を担っていた研究者の隙を突いたのだが……。
　ただ振り切って逃げだすだけで良かったことなのに、
　この吸血鬼はその際に、文字通り、その人間に食らいつき――]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[――後にその研究者が　“同胞”　たる長老によって
　記憶を操作された……という報に触れたことによって
　ヴィブラトは漸く、日々を怯えて過ごさずに済むようになった。
　この報によって、件の研究者が生きている（を自分は殺してはいなかった）と知れたからだ。]

　（あんな、　ふう、　に、
　　　　くらう、　わけ、　に　は　）

[だからこそ、この吸血鬼は己に束縛を課した。
　契約を交わしたひとりの人間以外からは
　決して血を吸うことをしない、と。
　人の生き血を「食べ歩く」ことには慣れまい、と。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[この道中で警察やら救急やらを呼ばれでもすれば、
　恐ろしくおぞましい事態になるところだったが、
　幸い、この不審な「人間に見える何者か」に対し、
　通りがかりの人間たちは無視を決め込んでいたようだ。
　　仮にこの時のヴィブラトが
　　本当に不調をきたしている「人間」であったなら、
　　これを「幸い」と呼ぶべきではなかっただろう。

　……本当に皆が皆、無視を決め込んでいた？
　ともあれこうして無事に誰に牙を立てることもなく
　残った手紙をポストに投函するまでは叶ったのだ。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

[帰路の時はもう既に、視界がぼやけだしていた。
　街の灯りの色だけが、その眩さだけがわかるものの、
　はっきりとしたモノの形は掴めない。]


「　―――――　…　？　」

[ただ周囲の音だけが、普段聞こえる物音以上に
　ずん、ずん、と耳から頭の内に響いてくる。
　くらっとして垂れそうな頭を、意志の力だけで持ち上げる。]


　　「　　―――――――　、　　　、　　」

[もう誰も来るな。傍に来るな、
　どうにか店（うち）に入って鍵をかけるまで――
　そんな思いももはや、言葉という形を結びはしない。
　　　まるで墓石からふっと湧き出てきた
　　　未だ淡い実体の、黒い影の頃のように。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

「　――――――――、　　パ、　」


[その吸血鬼は、渇きに満ちた重い身体をなんとか、
　宵月小堂の裏口の扉にまで運ぶことができた。
　そしてその戸を漸く開けたところで……。

　　ヴィブラトはそのまま、膝から崩れ落ち、
　　　　　　　　　　　倒れ込み、動かなくなった。]

C＃m：宵月 ヴィブラト

　　「　　――――――――パパ！　パパ、パパ！！　　」